下高久の田仲重代(たなか・しげよ)さんにお話を伺いました。
重代さんは大正15年(1926年)5月15日生まれの現在88歳。
お話を伺ったのは平成25年(2013年)10月27日、田仲さん宅にて。
聴き手は佐藤文郎・田仲桂です。
文字起こしは田仲佳織、編集は田仲桂です。
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聴き手)獅子舞の歴史を教えてください。文政3年(1820年)に生まれだ人(=重代さんのおじいさん)が青年時代だった頃(の話)。
8月の祭りっていうとうぢの方は雨にあだるっていう言い伝えがあんの。獅子をかぶって八幡様(=八幡神社)さ行って奉納して、帰りは今度大雨になっちゃって、滑津川が橋が流されちゃって、ほして獅子をかぶって泳いで皆して渡ってきた、そういう寝言を言わっちぇだの。だから天保の終わり頃(1843年)からあることはこれ間違いないんだけども、はっきりした獅子舞の年代というと、いつ頃入ったがそれはわかんない。
当時は、ここ(=下高久)は天領で、小名浜(=幕府の陣屋がおかれた港町)から幕府の米を江戸へ運んで、そして遊んできた(人)とか、病気をもって(帰ってきて)、ぼうしゃ病、コレラが流行って。天明の飢饉(1782~1788年)、そのあと寛政あたりの時(1789~1801年)かな。文化の10年代(1813年~)にここは180戸あったの、それがそのぼうしゃ病が小名浜がら吹いできて、伝染して、だいたい80戸になっちゃたの。100戸減っちゃった。その記録はいわき市史の中にあるの。
当時としては神頼みしかなかったの。んで、獅子舞も各辻辻で、払いをやって、殊に村境、うぢの方は千ヶ久保、そして馬場の洞橋、八幡の神谷作の入り口、沼ノ内のさざえ、そごで獅子を待ってそして病気を入んねぇようなこどをやる。ほして、辻辻の部落部落の神々に豊作ど家内安全を祈願して、それをこう一日がかりでやってると、いうこどが、高久の獅子舞の特徴だべね。
聴き手)重代さんはいつから獅子舞に関わるようになったんですか?私は、そうだねー。昭和8年(1933年)小学校さ上がってだから、(昭和)14~5年からだね。6年生の頃から。私獅子舞3回やってるんだ。4年に1回まわるわけで(=下高久では地域を4つのグループにわけて輪番で担当する)。ちょうど戦時中にあったもんだからね。小学校の子どもが獅子をかぶったんだけども、戦時中になって、子どもは危険だということで、青年がかぶる。青年は昔は満20歳になるっちゅうど兵隊検査がある。そんで検査して出征、召集になんだけども、同級生で甲種合格32名いるうち、甲種合格とって召集になんながったの私1人だけなんだ。8月20日入隊で。その年にちょうどうぢの方の部落が担当で、獅子をかぶった。
聴き手)その時に獅子をかぶった時の記憶は残ってますか?残ってる。頭の中に。この獅子をかぶるということは誇りに思ってたの。んで、長男がかぶったの。3回私かぶったの。ながながその年回りでね、かぶれないんだけども。偶然にもそういうわけで、時期が戦時中ということでかぶってんだよねぇ。私の兄弟は5人なんですが(兄弟は)かぶってないんだ。兄弟は、獅子はかぶんねぇけども、今の棒遣いだのなんかね。それはやってたから。
聴き手)重代さんが舞っていた時と今の獅子の舞手は変わったと思いますか?舞そのものは変わってはいねぇげどね。ただ精神的にね。大人がかぶっから。早く終わっぺ、なんていうそのね。あれはあっけんともね。
聴き手)精神的な部分ではどのような部分が違いだなって思いますか?今の現代の、神に対する、なんちゅうがなぁ、信仰っていうか、それはやっぱり薄くなってんのね。殊に私らはその思い出に残るのは戦時中なもんですから、神はそのねぇ、ほんとにありがだぐさ、絶対的なあれどこう思ってだから。お参りなんちゅうのは欠かさず子どもの時がら、じいさまに手をひかっちぇさ。そしてお参りしたもんだがら、やっぱりそういう精神がずっと残ってる。学校もやっぱり神に対する参拝なんていうのは必ずやってだから。そういう教育だったがらね。
聴き手)今の舞手や獅子舞に参加している人たちは信仰心を抱えていると思いますか?やるこどによって信仰心は高くなってくると思うね。私はそうだと思う。だがらやっぱり、大人の責務でこのお祭りは継承しなくちゃなんねぇ、そう思ってるのね。
聴き手)なぜ獅子舞にご自分は携わっていこうと思いますか?昔からの郷土の一つの芸能であって、後世に残していがねっきゃなんねぇなという、そういう考えもあるし、そういうこれは大人の責任だと、継承していぐのはね。そういう点で関わりしっちまうね。
聴き手)これまで獅子舞を経験されてきて、一番記憶に残っている出来事はありますか?うーん、別段記憶に残ってるというあれはないけんど、毎年よくやってんなぁっていうね。
うぢはこの陰に二荒神社(がある。これは)、元文一揆(1738年に磐城平藩で起きた大規模な一揆。このあと藩主の内藤氏は延岡に転封になり、平藩領であった下高久村は天領に組み込まれた)の後に、(下高久村は)天領になったもんだがら、なんぼでも年貢米増やしてもらうべというこどで、徳川の守り神の二荒神社の、日光に代表で行って、その分霊を受けてきて、こごさ二荒神社を祀り、お宮を建でで、1石4斗の除地までもらったの。んでその脇に田んぼあったんだけども、山6反歩と、田んぼ1反やげくらいがな、1石4斗の免田、いわゆる田んぼ収穫量をもらって、その神社のお祭りを保持したの。これは私が先祖から聞いだ話。
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聴き手)獅子舞を見ているとかなりキツイじゃないですか、なんでそこまで過酷なことをやらなければならないと思いますか?うーん、そうかな。過酷ではないと思うんだけども。これは地域の一つの安全と、五穀豊穣っていうかな、それを祈念して全体を回る、ま、どは思ってねぇんだ、私らは。務めだから。地域の。今の人と私らでは、考えが違うがらな。有難いなっというふうに思う、今の人にやってもられんのは。だがらこの舞は、やはり継承していぐのは大人の責任だなと。いろいろ語ってな。そう思ってんだけども。
聴き手)今年の獅子舞は台風の影響もあったので簡略化されましたが、簡略化されるのは今までもあったんですか?ありました。雨のために、そういうのはあったけども。それど放射能の問題もあっからね、この2~3年は。だから、子どもたちに一番その影響が大きいというがら。我々のようなのは雨に濡れだって何だって構いやしねぇんだけども。そういう点からやっぱり、若いお母さんに、父兄に配慮しながらやんなけりゃなんねぇしさ。
聴き手)震災の後はどういう変化がありましたか? えぇ、あの震災後は変化ありました。震災の時ちょうど私の部落で(祭りの)当番なもんだったがら、もうこういう事(=徒歩で村を回る)やんねぇで、自動車で。放射能の影響が大きいということで。細かくは言わねがったんだけども、そごの塵置ぎ場なんちゅうのは、いやいや放射能が高くてさ。神社のあっとごは林とが何がでしょ。だがら放射能が高がったの。
聴き手)重代さん自身はあの震災の後に、こういう問題を乗り越えていこうと思われましたか?うん。このままではいねぇから、低くはなっぺがら、1年たけは我慢して、あどはでぎんじゃないかというふうに。んで、勝手な何もわがんね者の考えなんだけども。
ちょうどここは、北東の風が入るわげ。ちょうど震災の時は、南東の風でもって風がみんな向ごうの方(=福島第一原発から北西部の方面)さ行っちゃった。んだからここは少ない、というふうな。これは事実、こういう結果になってるわけなんだけども。
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聴き手)今後舞い手が少なくなってくるということがあると思うんですが、この土地の外の人間が一緒にやるっていうことも考えられますか?こごの人じゃない人が入ってきていると、これは素晴らしいことでねがなと。
それがらね。あれたげの舞を、笛一づでさ、でぎるというごど、これはもう素晴らしい先祖様らがいだんだなぁというふうなごどは、私は常にそれは言ってるこど。楽譜もなげれば何にもねぇ、ほんとの、あの継承されでる笛のメロディがね、それによって獅子舞をするという。
獅子舞の舞も、必ずその世相、人間の一年の行事があの中さ入ってる。人間の節度というか、神に対して、これは人間の常日頃の。例えば、芸が8つあんだよね。一番最初「三匹ぢらし」。そん次「一匹ぢらし」。そん次「花笠(=「おばこ舞」とも呼ばれる)」。そん次「尺八返し」。そん次「扇取り」っていう。そん次が「雌獅子隠し」と「弓くぐり」と。ほして最後は「獅子踊り」と、これ8つで締めくくるわげなんだけども。いやいやそれがね、「三匹ぢらし」ど「一匹ぢらし」が、獅子が神に対する礼儀なんだよね。三匹でいわゆる神に礼儀をして、そして春になって、花笠の下で、誰も春になっと浮かれるという、獅子が花笠をくぐって踊りながらするわけ。その踊りも、「花笠」ど、それがら「尺八返し」なんてのも、あれは獅子の舞が違ってる。それを終わっちゅうど、今度、獅子が、こわい(=疲れる)だろう、汗を流すだろうっちゅうて、雌獅子が一生懸命、雄獅子を扇でもって煽ってね、微笑ましいあれがあんだよ。うん。
聴き手)そういう舞い方も人間の1年を…うん、人間の1年を模った。そして、その「雌獅子隠し」だなんていうのは、ほんとに霊長類の一夫多妻、ナンバーワンは、ナンバーツーがいづになったら落どしていって、ナンバーワンは負げるわげなんだげども、ナンバーワンは老獪でね、鈴でナンバーツーが取った雌獅子をあがにして、結局元の鞘に戻る。これなどはほんとに素晴らしいそのね。私らそのやっと戦後になって、兄弟の霊長類のその研究所でさ、あの集団で強いもの、弱肉強食っていうナンバーワンが群を率いていくなんちゅうこどがわがって。これは江戸時代にそれを、それの芸に入れでるっつうこどは、素晴らしい先祖様がいだんだなぁ、というそのさ、思いますねぇ。生物そのものの一生をさ、やってる。だけど、私なりに解説して今、そのしゃべってんだけども。これは、私もその素人なんだけども。うん。そういうのなのね、獅子は。
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聴き手)戦争中の獅子舞について、重代さんは小学6年生のときから3回かぶったそうですが、昭和15年、昭和19年、昭和23年ですか?うんうん、そのくらいだな。
聴き手)八幡(部落)の鈴木春夫さんが戦争のときにシベリアに抑留されていて、帰ってきた時が昭和23年の9月の14日で、根岸のお祭りだったと言っていました。あぁ、んだ、その頃かぶってる。その話は聞いてた。
聴き手)戦争中は、獅子舞は簡略化されてましたか?えー、簡略は…したね。舞を抜いで早ぐする。昼間は簡単に。15日の夜(本祭り)は完全にやったげども。村廻りはした。芸をね、普通10分くらいで終わんのを、6~7分で。そういうごどはやったね。
聴き手)戦争中は、人数は減りましたか?いやー、した。(戦争に)行ったから。少なくなった。
聴き手)戦争中、不謹慎だからやるなというのはありましたか?
そういうことはなかった。お祭りたけは。
聴き手)この辺も空襲はあったんですか?あったよ。うん。昭和20年の7月。あんた(=田仲)んとごさ駆け込んだんだ。あんた(=田仲宅)の西に3反5畝田んぼあったの。一本橋あだり、あんた(=田仲)わがんめげども。ほうして渡って、たぬくさ一生懸命あの車押ししてげ、もう、こっちがら(米軍機が来た)。ほうして小学校さ爆撃落どして。あれも、あと…5メーター手前さ落ぢたら大変だった。防空壕さ入ってで、そごをそっち側さ5メーター外れでさ。ほうして爆発したがらあれだったげど。あれ5メーター手前で、直撃食ったそば。うーん。たいしだ。そん時私ら車押して。あんたの西で。あそごに3反5畝あったの。隠居だ隠居だっつって。
聴き手)昭和20年も獅子舞は、終戦後っていうことになりますけどやったんですか?やった。
聴き手)戦争に負けて、そんななか祭って通常に催行されたんですか?えぇ。それたけの、なんちゅうかぁ、行政あだりがね、祭に対しての関与はながったもんね。やっぱり、なんちゅうがなぁ、神国だったんだっぺなぁ。神国日本て。
聴き手)戦争の後は、お祭りは途切れたことは。途切れたことっちゃない。だがら、戦時中がらずーっと、途切れねぇで。一番途切れだのは、途切れだ、簡素化したのは、今度のその震災だけな。これ一番だ。
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聴き手)戦争の前と戦争の後で、何か変わったことはありますか?いやー、ある。ごっつぉう(=ご馳走)が違う。昔は、氏子総代は部落で一人だったがら、そごさ回って歩ったの、ごっつぉう食い食い。
あど、3日目は、お祭り終っちど、今度部落で1日(「部落祭」を)これは必ずやってだ、どごもね。今は根岸(部落)だげだっぺ、やってんの。
聴き手)なんでそれが根岸だけになっちゃったんですか?まぁ、反省会、金がかかるという、だっぺね。
聴き手)根岸以外のほかの部落はいつぐらいからなくなっていったんですか。根岸は明確に、2つの部落が1つにまとまって、つまり原部落と一緒になった時点で「部落祭」はなくなりましたが。うーん、やっぱり経費の問題だと思うんだよなぁ。根岸は稲荷神社あっぺ。これは根岸のお祭りだーっというごとで、明日1日もやった。んでね、そのやるために、まぁ先祖様偉がったんだっぺなぁ、田んぼ、財産があったの、部落に。田んぼが1反2畝くらいあったの。そして、それを貸して作ってもらって、耕作の少ない人に。そうして1俵とが2俵もらって、それを積み立でして、4年間積み立でしてで、それを獅子舞の祭典の資金にしった。そんで(昭和)23年の農地解放になって、その田んぼが耕作者にそれ、あれしたために、あどは皆の負担でこう、やってだど。
部落によって、お祭りの資金の調達は違ってだ。で、なんでかんで是非ともお祭りだけは必ずやるという、そういう昔からの部落民としての気構えはあった。信仰が強いというがね。
聴き手)郷土芸能が廃絶された大きな時期・転換点が2回あったと、1回目が戦争、2回目が高度経済成長、農村から人がどんどん都会に流れて行ってしまってそこで廃絶されていった郷土芸能がたくさんあったと言われてるようなんですが、高久は1960年代前後で変わった部分はあると思いますか?いや、ないなぁ。まぁ農村やってる人が少ないけれども、働きさ出てる人が少ないけども、いないいないっちけんとも、結局いるごどはいんだがら。これは言葉たげであってね、やる人は大丈夫だど思うの。
聴き手)この後継者不足の現状で獅子舞を続けていくにあたって、子どもにどうやって興味をもってもらおうかなぁと思っているのですが…。あー、小学校だね、うん。郷土意識をさ、昔から続いでる獅子舞の文化、授業をね、もう子どもの時から植えつけで行ぐという。こごらは先生あたりとよくと話し合いしてさぁ、進めて行がねっかなんないんでねぇがなぁ。うん。
聴き手)昔はお米を作ってそれを資金にしていた。他のところはどうだったんですかね。昔は大変だったんだよね、お祭りっていうと。この経費が今ど違って。今はだいたい月1000円くらい出してればさ、だいたいお祭りの経費は4年間でうぎっちま出っと思うの。昔はこういうわげには行がながったがらね。もっと苦しがったの。だけども、信仰が強かったがら。まぁ大変だったがら。今は大字行政の中で、だいたい20万、祭典執行の助成はしてるわげ。だいたい20万つったって、2割くらいだけんともね。100万はかがっから。
聴き手)その他に、各世帯で積み立ててるんですか?うん、積み立ててる。
聴き手)じゃあ、世帯数少ない部落大変ですよね?うん。だがら小さい部落、根岸あだりが一番小さかったの。今は70戸になったげんとも。私らやる時(昭和15~23年)にはだいたい40戸くらいだがら。うん。これは大変だったの。大字の補助制度なんちゅうのも、根岸で持ぢ出しでさ。根岸ど中妻ど。共同で持ぢ出しで。これだがら、下三ヶ所は、八幡・川和久・原・の大きな部落3部落が集まんだがら、こらぁ、あんたら1年でやんのは、(根岸部落や中妻部落が1部落でやることに比べれば)ほんとに楽なもん。1戸あだりの負担としてはね。んだがら、ほれ容易でながったんだ、これ、根岸で出したの、大字さ。そういうこどで。
聴き手)今後続けていくにあたって、お金の問題ってやっぱり…大した出ないんでないの?所得がこう多ぐなってきてっから。所得が今、農家所得もだいたい、えー、3倍はあっぺ。うん。農業所得。だがら金の問題でどうこうなんちゅうごどは、なぐなったの。なぐなってきてる。ただ、人的不足の問題。いや、子どもが、それ。これはほんとに由々しき問題だよ。だいたい一部落に私ら時には、同級生なんちゅうどさ、女を含めでだげんとも、10人近ぐはいだわげだ。うん。1クラス、だいたい男女でもって70名はいだんだ。いだわげだがら。うん。それが今はね、だいたい、10・・・20名がそんなもんでしょ。うん。1学年。やっとほんでも、高久の場合は、下原の、沼ノ内のあそごのあれ(=諏訪原の新興住宅地)が学区さ入ってっから。あそご上がってっから30何名さ。
聴き手)例えば沼ノ内の諏訪原とか鶴ケ井とか山口の人が獅子舞混ざりたいっていう話が出たとしたら、混ざってもいいもんなんですか?あぁ、いいと思うねぇ。うん。なかなか、難しい問題に当だっぺげども。うん。
聴き手)私も古い考えかもしれないんですけども、村境って、高久と鶴ケ井、高久と山口、高久と沼ノ内ってあるじゃないですか。そこから災厄が入ってこないようにって岡崎あげてるのに、例えば山口から人、とか、なんかそこってどうなんだろうって思うところもあって。すいません、私ちょっと古いんですけど(笑)岡崎を村境であげるということは、昔はほんとに、今考えだら単純なね、仮に一つの舞どしてさ、病気の入んねぇようにやるど、こらぁ、病気そらぁ、その道路がら入るわげではあんめげどもね。交通遮断するわげではねぇけんとも。単純な、一つの、思いというかなぁ。当時の人たちが神に、頼ったという、それしかねがったんだもの、医者がいねぇんだっぺしさ、ねぇ。病気だなんつうのも、今いわき市の中でぼうしゃ病という、コレラなんていう、これはわがんねぇわげだ。と思うんだよね。私は。当時は。んで、高久には松井くんていう、戊辰戦争のあと、平藩の御殿医だった、こごさその、よごさっちゃわげだ。土地がくれられっちぇ。(=磐城平藩の御殿医の松井氏が戊辰戦争後に下高久村に土地を与えられ移り住んだ。)んだがらそのねぇ、あったがら、いがったげども。馬が交通手段としても、自転車あるわげではねぇ、自動車でもねぇ、馬でもってそれ、その前は籠でかづって、遠くの医者さ行ぐんだもの、普通病気だってかがらんねぇわい(笑)
聴き手)長い間ありがとうございました。獅子舞でこういうインタビューされたことはありますか?ない(笑)